進化論の何億年という長い歴史年代に合わせた創世記の再解釈が、聖書の主題である‘主のマスタープラン(キリストの来臨の約束)~福音’を壊滅させることは同テーマ(その1)で記しましたが、今回はその代表的な再解釈である‘日・時代説’について採り上げます。
この説は、創世記第1章の創造の‘日’を、たとえば、「昔の時代」を「昔の日」と言うことがあるように、ヘブル語の‘日:ヨーム’も‘時代’と読めば、進化論の何億年という年代と矛盾しない、と解釈されました。
しかし、聖書は、創造の六日間について、全て「夕があり、朝があった、第〇日。」という文節で区切り、通常の日であることを、念を押して示しています。
さらに、出エジプト記の十戒・安息日のみことば:
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。(出エジプト記20:9)
それは、主が6日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト20:11)
は、創造が通常の日の六日間であることを保証しています。もし、創造の‘日’が‘何億年の時代’を意味しているなら、私たちの一週間のサイクルは成り立ちません。
Ⅱペテロは私的解釈を警告する書簡ですが、激変がなかった(斉一説)と主張する人たちに対して:「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によってなったのであって、当時の世界はその水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです。 (Ⅱペテロ3:4~7)
ノアの洪水は全世界でした(創世記7:19~23、8:9)。しかし、‘日・時代説’は、ノアの洪水はメソポタミア地方の局地的な洪水(激変ではなかった)と解釈する説とセットで主張しています。何億年という地層や化石は、全世界的洪水という激変を認めるなら、洪水の1年間に全部積もってしまい、長い地質年代は無かったことになるからです。そして、さらに、その次の箇所:
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 (3:8)
を捉えて、創造の日を長い時代とする後ろ盾にしています。しかし、この箇所は、逆にそう言う人たちに対し:
主は、・・・かえって、あなたがた対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 (3:9)
と、主が忍耐しておられる期間を言っているのです。
ところで、何を隠そう、かつて私は進化論の長い年代で聖書を解釈していたことがありました。主が忍耐して私が悔い改めるのを一日は千年のようであり、千年は一日のように待っていてくださいました。ハレルヤ!
聖書には、世界の始まりからの歴史が書かれています。たった六日間で天地万物が創造され(創世記1章)、その六日目に創造された最初の人アダムからキリストまでの系図が切れ目なく記されていて(創世記5章、11章、マタイ1章)、合計するとアダムからキリストまでの期間はおよそ4千年です。すなわち、天地創造から今まで6千年しか経っていないということです。キリスト教世界において19世紀までは広くそう信じられていました。しかし、今日ではそうではありません。なぜでしょうか? ダーウィンの進化論以来、人間に至った何億年という歴史がパラダイム(不確かなことが常識の土台となった事柄)になってしまったからです。
それで、神学者たちは‘進化論&その長い年代’と‘聖書’の間を埋めようとして創世記の解釈を模索しました。主な神学解釈に、①創造の1日を1時代と解釈する‘日―時代説’、②創世記1章1節と2節の間に長い時代があったとする‘間隙説’、③アブラハム以前は歴史事実ではないと解釈する‘枠組み説’などがあります。それらはいずれも進化論(と進化論が主張する何億年という地質年代)に合わせようという試みで提唱されました(『創造の疑問に答える』の第2、3章参照)。聖書を擁護しようという動機だったのでしょうが、それらは聖書の主題である‘主のマスタープラン~福音’に壊滅的な影響を及ぼしました(各説の詳細は順次掲載します)。というのは、もし長い時間かけてアダムに至ったなら、完全創造と堕落を喪失し、福音の意味は完全に壊れてしまいます。死は初め(アダムの罪の前)からあり、生存闘争でアダムに至ったことになるからです。福音が真実であると言えるのは、アダムが神(創造主)に離反した結果、神との調和が壊れ、死が介入したという悪い知らせが事実であるということに因るからです。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(1コリント15:21、22)
それらの神学解釈は、進化論(の長い年代)から聖書を解釈したということであり、しかし進化論とは(聖書外の)無神論を前提とした人間の考えですから、明らかに私的解釈でしょう。何から考え始めるか、その‘何’が信仰です。聖書は私的解釈について警告しています。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。(第2ペテロ1:20)
さらに警告が、2ペテロ2章、3章に書かれています。
二つの歴史、二つの死生観
聖書は終始、「創造主は、死のない世界を創造されたが、人の罪によって死が入り、キリストが十字架の死という代価を払って信じる者を死のない世界に買い戻す」という主のマスタープランを教えています。
すなわち、初めに死のない世界があり、数千年間死が介入として入り、将来死のない世界が回復させられるということです。(上図のライン1)
一方、進化論とは、「38億年くらい前に、偶然、最初の生物であるバクテリアが発生し、生存闘争を通して人間にまで進化した。」、すなわち、「死は世界の初めから存在し、死を通して生命が進化し、未来も死は永遠に存在する」と主張する学説です。(上図のライン2)
もし、クリスチャンが、進化論や、あるいは進化論が主張する膨大な歴史年代を受け入れてしまうとどういうことになるでしょうか? アダムの前に膨大な(進化の)年代があって、アダムの罪の前、いわゆるこの世界の初めから死が存在したことになり、キリストの贖いの理由と意味を喪失します。たとえば次の聖書箇所です。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。(1コリント 15:21、22)
最後の敵として、死が滅ぼされます。(1コリント 15:26)
もし、初めから死があり、死を通していのちが出現したのなら、どうして死は最後の敵となり得たでしょうか。
人の意見から聖書を解釈するのではなく、聖書から世界を見る者とされたいと願います。
聖書はすべて、神(創造主)の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(2テモテ3:16)
よく、クリスチャンは、「悔い改めよ、イエス様があなたの罪のために死なれた!」と伝道します。しかし、聖書の土台のない日本の人たちは、「なんと奇妙な考えなんだろう。自分は罪人ではない。外国の神はいらん」という反応をするのです。自分の創造主を無視して、自分を基準に生きていることが罪であるという聖書の世界感を持ち合わせていないからです。
聖書に異邦の国ギリシャで起こった同様のことが書かれています。
「エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のあるものたちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを述べ伝えたからである。」(使徒17:18)
「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかでしょうが、」(第1コリント1:23)
ですから、おろかなことと反応したギリシャの人たちにパウロは次のように伝道しました。
「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神(創造主)は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」(使徒17:23、24)
すなわち、パウロは、まず、万物の創造主を伝えることから伝道を始めています。ギリシャは進化論(ギリシャ哲学は進化論)と多神教と偶像の国であったからです。
さて、今の日本は進化論、八百万の神々と偶像の国。当時のギリシャとそっくりではありませんか。もっとも福音の伝わりにくい国と言われる背景にはこのことがあるのではないでしょうか。もっとも、近代、進化論がパラダイム化したことで、キリスト教国といわれる国々も聖書の土台を喪失してきたと言われています。パウロの異邦人伝道は今日の世界に、特に日本伝道の指針となるのでは。
上図(AIG提供):「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。(エレミヤ4:3)
神(創造主)である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。(創世記2:21、22)
この箇所についてはいろいろな見解があるそうです。「アダムはあばら骨が一本欠けたまま生きた。」、「男性は女性よりあばら骨が一本少ない」、「創世記は非科学的であり、寓話だ。」等等。私たちの常識では理解、弁明が困難ですね。私が10年余り前に創造論団体のCMIを訪問したときのことです。その代表のカール・ウィーランド博士が夕食に誘ってくださいました。その時、博士は片足が義足、片手が義手、片目が義眼であることがわかりました。どうしたのですか?と尋ねると、証して語ってくださいました。
「私はかつて医師でした。往診の帰りにトラックと正面衝突したのですが、命は奇跡的に助かりました。意識が戻ると病院で何十回も手術を受けていました。顔の半分がつぶれたので、ほお骨を再製するために私自身のあばら骨が抜き取られていたのです。それで不安になって専門医に、『私も医師で恥じ入ってお聞きしますが、あばら骨を無くして大丈夫ですか?』と質問すると、その専門医は、『骨を包んでいる骨膜を残して上手く骨を抜き取ると骨が回復します。関節のないあばら骨だけ利用できるのです』と答えてくれました。私は、この時代になって、私の身体を通して主がご自身のみことばを弁明されたのだ、と思いました。それで、退院後、職を辞し、聖書的創造論からの福音団体を始めたのです。」と。
(CMIのサイト: http://creation.com)
天地創造の六日間が普通の日(地球1回転)であるという理解は今日のキリスト教界で極めて少数派です。このことには進化論に合わせようとして、何十億年という年代を聖書に当てはめようとした神学解釈(有神進化論)が背景にあります。地球の年齢が(何十億年と)古ければ、徐々に堆積した厚い地層とそこに埋蔵された化石が進化の歴史を示していると主張する進化論と調和し、福音とも矛盾しない穏健な解釈と考えられたのです。 しかし、その解釈をもう一度聖書に戻すと福音に根本的な問題が現れます。すべてのものが死滅する世界で、より強いものが子孫を残して徐々に変化(進化)し、アダムに至ったのならどういうことになるでしょうか? すなわち、主の創造の中に大量の死、病気、闘争、苦しみ、災害があったことになり、次の聖書箇所と矛盾します。
「神(創造主)はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」(創世記1:31)
さらに、アダムが罪を犯す前に死が存在したことになり(上の絵)、次の聖書箇所と矛盾します。
「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわちアダムあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(1コリント15:21、22)
進化、あるいは有神進化の解釈に立って、果たして自分自身が完全にアダムの子孫であると信じることができるでしょうか? しかし聖書は、アダムの罪で堕落して死ぬ世界になったので救いが必要になったのであり、キリストの贖いの対象はアダムの子孫であることを告げています。それゆえ、キリストは創造主であられるのに、あえてアダムの血族に生まれられ、救い主として、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、そして復活されました。(系図:創世記4、5、10、11章、マタイ1章)
(詳細はドン・バッテン著「創造の疑問に答える」第2、3、5章、カール・ウィーランド著「創造の確かな証拠」をご参照下さい。) 絵の版権 Picture Copyright:Creation Ministries International http://creation.com
一般的にノアの箱船は史実ではなく神話と考えられています。地上の全ての動物種が箱船に乗ることはないと考えられているからです。しかし、そう主張する人たちは、このことをじっくり考えたことがありません。この絵は実際に聖書(創世記6:14~16)に書かれた箱船の形と規模を表しています。その大きさは、長さ137m、幅23m、高さ13.7mで体積は43,200立方メートルです。これは大型フェリーの大きさで、羊240匹収容できる貨車522両分に相当します。一方、箱船に乗ったという動物‘behemah’は地上の動物を表していて、創造の種類(交配して子どもができる範囲;オオカミもコヨーテもイヌである)は多く見積もっ16000種類です(創世記6:19、20、7:2、3)。そしてその平均の大きさは羊よりはるかに小さいのです(子どもなら小さなねずみくらいです)。もし、動物のつがいを平均50cmx50cmx30cmのおりにいれると、16,000種で1200立方メートルになり、貨車14両強に相当します。これは箱船の収容スペースのたったの2.8%で、残りは空気、動くための余裕、食料、人間のためのスペースに十分です。(創造の疑問に答える・第13章参照)
箱船はアララテ山に漂着し、動物たちが繁殖し、全世界へ散らばりました(創世記8章、11章)。人間も箱船に乗ったノアの家族八人から全ての民族が分かれ出ました。船という漢字は舟と八と口(人口のように人の数を表す)でできていて、そのことを象徴しているように見えます。(創造の確かな証拠・48ページ参照)
創造主は洪水で当時の世界を裁かれましたが、救いの箱船が備えられていました。今この時代にも、完全な救いの箱船が備えられていて、そのドアとなられた方(イエス・キリスト)がおられます。
私は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら救われます。また、安らかに出入りし、牧草を見つけます。(ヨハネ10:9)
みなさんは、聖書を読んだことがあるでしょうか?
実はそこにはあなたにも関係のある、素晴らしいメッセージが込められているんです!
全宇宙の創造主なる神は、わたしたち人間を特別な存在として造り、特別に愛して下さっています!
しかしわたしたちは創造主を無視して生きるようになってしまいました。
その結果、人生の本来の意味がわからなくなり、心はゆがみ、 互いに傷つけあい、悪いことを行なうようになったのです。
創造主は、わたしたちが積み重ねてきた罪を不問にすることはできません。
そして、罪の報いは永遠の滅び、地獄の刑罰であると、はっきり告げているのです。
しかし、素晴らしい知らせがあります!
創造主はわたしたちへの深い愛のゆえに、なんと人間イエスとなって この地球に来られ、本来わたしたちが受けるべき地獄の刑罰を、十字架で身代わりに受けてくださったのです。
また復活を通して、ご自分が生命の創造主だと証明しました。
もし創造主に対して自分の罪を認め、イエスの死と復活が自分のためだと 心から信じるなら、あなたは永遠の滅びから救われます!
人生の意味は回復され、創造主と永遠に生きるようになるのだと、聖書は約束しているのです!