聖書には、世界の始まりからの歴史が書かれています。たった六日間で天地万物が創造され(創世記1章)、その六日目に創造された最初の人アダムからキリストまでの系図が切れ目なく記されていて(創世記5章、11章、マタイ1章)、合計するとアダムからキリストまでの期間はおよそ4千年です。すなわち、天地創造から今まで6千年しか経っていないということです。キリスト教世界において19世紀までは広くそう信じられていました。しかし、今日ではそうではありません。なぜでしょうか? ダーウィンの進化論以来、人間に至った何億年という歴史がパラダイム(不確かなことが常識の土台となった事柄)になってしまったからです。
それで、神学者たちは‘進化論&その長い年代’と‘聖書’の間を埋めようとして創世記の解釈を模索しました。主な神学解釈に、①創造の1日を1時代と解釈する‘日―時代説’、②創世記1章1節と2節の間に長い時代があったとする‘間隙説’、③アブラハム以前は歴史事実ではないと解釈する‘枠組み説’などがあります。それらはいずれも進化論(と進化論が主張する何億年という地質年代)に合わせようという試みで提唱されました(『創造の疑問に答える』の第2、3章参照)。聖書を擁護しようという動機だったのでしょうが、それらは聖書の主題である‘主のマスタープラン~福音’に壊滅的な影響を及ぼしました(各説の詳細は順次掲載します)。というのは、もし長い時間かけてアダムに至ったなら、完全創造と堕落を喪失し、福音の意味は完全に壊れてしまいます。死は初め(アダムの罪の前)からあり、生存闘争でアダムに至ったことになるからです。福音が真実であると言えるのは、アダムが神(創造主)に離反した結果、神との調和が壊れ、死が介入したという悪い知らせが事実であるということに因るからです。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(1コリント15:21、22)
それらの神学解釈は、進化論(の長い年代)から聖書を解釈したということであり、しかし進化論とは(聖書外の)無神論を前提とした人間の考えですから、明らかに私的解釈でしょう。何から考え始めるか、その‘何’が信仰です。聖書は私的解釈について警告しています。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。(第2ペテロ1:20)
さらに警告が、2ペテロ2章、3章に書かれています。