二つの歴史、二つの死生観
聖書は終始、「創造主は、死のない世界を創造されたが、人の罪によって死が入り、キリストが十字架の死という代価を払って信じる者を死のない世界に買い戻す」という主のマスタープランを教えています。
すなわち、初めに死のない世界があり、数千年間死が介入として入り、将来死のない世界が回復させられるということです。(図のライン1)
一方、進化論とは、「38億年くらい前に、偶然、最初の生物であるバクテリアが発生し、生存闘争を通して人間にまで進化した。」、すなわち、「死は世界の初めから存在し、死を通して生命が進化し、未来も死は永遠に存在する」と主張する学説です。(図のライン2)
もし、クリスチャンが、進化論や、あるいは進化論が主張する膨大な歴史年代を受け入れてしまうとどういうことになるでしょうか? アダムの前に膨大な(進化の)年代があって、アダムの罪の前、いわゆるこの世界の初めから死が存在したことになり、キリストの贖いの理由と意味を喪失します。たとえば次の聖書箇所です。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。(1コリント 15:21、22)
最後の敵として、死が滅ぼされます。(1コリント 15:26)
もし、初めから死があり、死を通していのちが出現したのなら、どうして死は最後の敵となり得たでしょうか。
人の意見から聖書を解釈するのではなく、聖書から世界を見る者とされたいと願います。
聖書はすべて、神(創造主)の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(2テモテ3:16)
著者について